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イタリアの食の文化歴史

イタリア文化史

フィレンツェとは

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア と名付けた事が語源とされています。周辺国ではフィレンツェのことを、英語でフローレンス、スペイン語でフロレンスィア、ドイツ語でフロレンツ、フランス語でフロランスと呼ぶことにもその名残が見られます。 美しい景色・建築物というより、どちらかといえばイタリアの歴史そのものを身を持って感じられるところだと思います。もちろん景色や建築物も抜群に魅力的です。 イタリアの歴史を勉強しているとフィレンツェやフィレンツェにある建築物の名前がたくさん出てきます。中世時代はフィレンツェを中心にイタリアが回っていたと言っても過言ではありません。
市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されています。(出典:フィレンツェ – Wikipedia)

フィレンツェとはフィレンツェは街中が美術館です。(出典:冬のイタリア旅行・フィレンツェのドゥオモで「冷静と情熱のあいだ」ぶってみる – 花暦[hanagoyomi ])

イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)で、トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都です。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配しました。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレツェはルネサンスの文化的な中心地となりました。(出典:www.ryacademy.com)

【1】ドゥオーモ

ドゥオーモ1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始されます。 14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていましたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにしました。 天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作。 レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆しています。
花のサンタ・マリア聖堂と呼ばれるフィレンツェ大聖堂は、ブルネレスキ設計のドームのため建築史上とても有名です。(出典:フィレンツェ大聖堂) 町のどこからでも望むことができ、『丘のようだ』と形容されるその姿は、建築学上の奇跡とされ、フィレンツェの赤い屋根の中でもひときわ目を引きます。 ドゥオモ共通券10ユーロでフィレンツェのクーポラやジョットの鐘楼などが24時間入館できます。

【2】洗礼堂

洗礼堂この洗礼堂の起原は4世紀から5世紀にさかのぼる。現在の建物は、三つの建築物の中では最も古いロマネスク建築で、11世紀に起工されたものです。 屋根部分全体は1128年に、頂頭部のランターンは1150年に、司教座のある内陣は1202年に完成しました。 1355年から1375年まで改修を行い、礼拝堂に入る前に洗礼を施す洗礼堂として使われるようになります。この洗礼堂で洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョヴァンニ」とこの洗礼堂に言及しています。 ミケランジェロが「天国の扉」と大絶賛したブロンズの扉がある、ルネサンス美術の幕開けのきっかけとなった洗礼堂です。
最も古いロマネスク建築といわれていて、起源は4~5世紀までさかのぼります。(出典:ヨーロッパ観光旅行ガイド|ベネチア・ピサ・シエナ・モンサンミッシェル・バルセロナ・パリ)

【3】ジョットの鐘楼

ジョットの鐘楼大聖堂の建設にあたって、1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始しました。 しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継ぎます。 聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成しましたが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られませんでした。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に建設されている高さ約84mの建造物です。
空の上から眺めるフィレンツェの町は美しい! (出典:ジョットの鐘楼 – Wikipedia) (出典:クーポラとどっちを選ぶ?ジョットの鐘楼でフィレンツェの町を一望しよう!|フィレンツェ(イタリア)の海外現地ガイド記事|海外旅行情報 エイビーロード)

【4】ヴェッキオ宮殿

ヴェッキオ宮殿1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設されます。 初めは、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていました。 1550年から1565年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築されます。 現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われています。 内部は、「フランチェスコ1世の仕事部屋」「500人大広間」「レオ10世の間」「ゆりの間」などの部屋に分かれています。 ミケランジェロ伝のメインイベントの一つ、500人大広間でレオナルドとの壁画対決が行われた場所です。
(出典:イタリアに行きたい!フィレンツェ、ヴェッキオ宮殿内部 ヴァザーリがダビンチの絵を後ろの壁にそのまま残していたらしい!) (出典:ヴェッキオ宮殿のダ・ヴィンチコード – 白ウサギを追いかけて – Yahoo!ブログ)

【5】ウフィツィ美術館

ウフィツィ美術館初代トスカーナ大公コジモ1世の治世下、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に竣工したフィレンツェの行政機関の事務所がもとになっています。コジモ1世が当時あちこちに分かれていたフィレンツェの官庁をひとつの建物に収めさせたもので、建設時には周辺の一区画をすべて取り壊して建築が行われました。 アルノ川に面した川沿いの砂地に建築されており、基底部分は世界最初のコンクリート工法とも言われています。なお、コジモ1世とヴァザーリはともに1574年に没しており、建物の完成はコジモ1世の跡を継いだフランチェスコ1世と建築家ベルナルド・ブオンタレンティに引き継がれました。
イタリアルネサンス絵画で有名な美術館であり、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つで、イタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大です。 (出典:ウフィツィ美術館 – Wikipedia)

【6】アカデミア美術館

アカデミア美術館イタリアのフィレンツェにある美術学校フィレンツェ美術学校の美術館。 1873年、ミケランジェロの傑作『ダヴィデ像』が、シニョーリア広場のヴェッキオ宮殿前から、天候や歳月による損傷を防ぐという理由でここに移設されました。

【7】ヴェッキオ橋

ヴェッキオ橋イタリアのフィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。橋の上に宝飾店が建ち並んでいることで知られています。 プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』のアリア「私のお父さん」「お父様にお願い」で娘のラウレッタが「お父さん、もしリヌッチョと結婚できないなら、私、ポンテ・ヴェッキオからアルノ川に身投げしてしまうから」と脅すのでも有名で、フィレンツェの代表的な観光スポット。 イタリア語で「古い橋」の名が示すとおり、フィレンツェ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋です。
橋の両脇には金細工の店がずらりと並んでおり、橋の中央からはアルノ川の眺望が楽しめます。 (出典:ヴェッキオ橋 – Wikipedia)

【8】サン・ロレンツォ教会

サン・ロレンツォ教会イタリア中部、トスカーナ州の都市フィレンツェにある教会。 4世紀末の創建でフィレンツェ最古の教会の一。11世紀にロマネスク様式で再建され、15世紀にブルネレスキにより改築されて現在の姿になりました。メディチ家の墓所としてブルネレスキが設計した旧聖具室、メディチ家代々が収集した蔵書を保管するラウレンツィアーナ図書館があります。 また、メディチ家礼拝堂とミケランジェロ設計の新聖具室が教会裏手に位置しています。 メディチ家代々の菩提寺で15世紀にブルネレスキによって建てられた典型的なルネッサンス様式の建物です。主祭壇前の床には数種類の石でメディチ家の紋章が描かれています。(出典:サン・ロレンツォ教会)

【9】ピッティ宮殿

ピッティ宮殿“ピッティ宮殿は、イタリアのフィレンツェにあるルネサンス様式の広大な宮殿。トスカーナ大公の宮殿として使用されていました。アルノ川の西岸に位置し、ウフィッツィ美術館とはヴァザーリの回廊を通じて結ばれています。 1587年にフェルディナンド1世が即位して以降、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によってイタリア国民に移譲されるまで、トスカーナにおける宮廷としての役割を果たし続けました。約400年に渡り、メディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数にのぼります。 ルネサンス様式の広大な宮殿。トスカーナ大公の宮殿として使用されました。
メディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数にのぼります。この建物は、内蔵する美術品とともに美術館として一般に開放されています。(出典:ピッティ宮殿 – Wikipedia)